アメリカに行ってきました。私が輸入しているGRANITIZE(グラニタイズ)のSales conference(ほとんど呑み会)出席の為なのですが・・。
そこで、トルコ人と意気投合して仲良くなりました。トルコは親日家が多く、「エルトゥールル号」の話は小学校の教科書にも持っておりトルコ国民全員が知っている話で、日本人の私が知らない事に驚かれ、日本に帰ったら是非!日本の皆に伝えて欲しいと懇願されました。
その話を知らなかった私は、ちょっと恥ずかしかったので、帰国後、この話しについて調べましたが、とても素晴らしい話なので彼との友情の為、日本とトルコの友好の為に一部紹介したいと思います。
1890年6月7日に横浜に到着したエルトゥール号は司令官オスマン・パシャを特使とする一行は6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。
帰国の途に着いたエルトュール号は9月16日折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし沈没、乗組員587名が死亡または行方不明になる大惨事となりました。
灯台下に流れ着いた生存者が数十メートルの断崖を這い登って遭難を知らせ、灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町樫野)の住民たちは、総出で救助と生存者の献身的な介抱に当たり、この結果、69名が救出され生還することができました。
この遭難事故は樫野の区長から大島村長に伝えられ、神戸港の外国領事館に援助を求めて生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配するとともに日本政府にも通報しました。
知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示、こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、69名の生存者は遭難事故の20日後、日本海軍の2隻の軍艦により、翌年イスタンブルに送り届けられました・・・。
なんと、この話はこれだけに止まらず95年後に続きます。
イラン・イラク戦争が始まった1985年、イラクのサダム・フセインがイラクのイラン上空の航空機に対する期限を定めた無差別攻撃宣言「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を全て打ち落とす!」
世界各国は自国民の救出をするために救援機が相次いでテヘラン空港に向いましたが、イラン在住の216名の日本人は自衛隊機による救援を受けられなかったうえ(海外派遣不可の原則)、日本政府から要請された日本航空は領空内の航行安全の保証がされない限り臨時便は出さない(!)という危機的状況に陥りました。
このとき、イランの日本大使館の野村豊大使がトルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴えると、大使は「わかりました!ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう! トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも!」と答え、大使の要請を受けて派遣されたトルコ航空機は日本人216名全員を乗せて、トルコ経由で無事に成田空港に向かって飛び立ちました・・・なんと、タイムリミットの1時間15分前の出来事でした。
・・・内容はだいぶ端折ったし専門家ではないので多少の相違はご了承下さい、これ以外にも知らない外国と日本の友情の話はたくさんあるのでしょうね。
しかし、アメリカに行ってトルコ人と仲良くなるなんて、旅は不思議なもので予期せぬ出会いにいつも感動させられます。
この逸話を知る機会を与えてくれたトルコの友人に感謝します。
Teşekkürler! Görüşmek üzere!
参考資料ウェキペディア:エルトュールル号遭難事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AB%E5%8F%B7%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
トルコ大使館
http://www.turkey.jp/2003/info03_5.html
串本町観光協会
http://www.kankou-kushimoto.jp/txt001.html
そこで、トルコ人と意気投合して仲良くなりました。トルコは親日家が多く、「エルトゥールル号」の話は小学校の教科書にも持っておりトルコ国民全員が知っている話で、日本人の私が知らない事に驚かれ、日本に帰ったら是非!日本の皆に伝えて欲しいと懇願されました。
その話を知らなかった私は、ちょっと恥ずかしかったので、帰国後、この話しについて調べましたが、とても素晴らしい話なので彼との友情の為、日本とトルコの友好の為に一部紹介したいと思います。
「エルトュールル号遭難事件」
帰国の途に着いたエルトュール号は9月16日折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし沈没、乗組員587名が死亡または行方不明になる大惨事となりました。
灯台下に流れ着いた生存者が数十メートルの断崖を這い登って遭難を知らせ、灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町樫野)の住民たちは、総出で救助と生存者の献身的な介抱に当たり、この結果、69名が救出され生還することができました。
この遭難事故は樫野の区長から大島村長に伝えられ、神戸港の外国領事館に援助を求めて生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配するとともに日本政府にも通報しました。
知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示、こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、69名の生存者は遭難事故の20日後、日本海軍の2隻の軍艦により、翌年イスタンブルに送り届けられました・・・。
なんと、この話はこれだけに止まらず95年後に続きます。
イラン・イラク戦争が始まった1985年、イラクのサダム・フセインがイラクのイラン上空の航空機に対する期限を定めた無差別攻撃宣言「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を全て打ち落とす!」
世界各国は自国民の救出をするために救援機が相次いでテヘラン空港に向いましたが、イラン在住の216名の日本人は自衛隊機による救援を受けられなかったうえ(海外派遣不可の原則)、日本政府から要請された日本航空は領空内の航行安全の保証がされない限り臨時便は出さない(!)という危機的状況に陥りました。
このとき、イランの日本大使館の野村豊大使がトルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴えると、大使は「わかりました!ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう! トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも!」と答え、大使の要請を受けて派遣されたトルコ航空機は日本人216名全員を乗せて、トルコ経由で無事に成田空港に向かって飛び立ちました・・・なんと、タイムリミットの1時間15分前の出来事でした。
・・・内容はだいぶ端折ったし専門家ではないので多少の相違はご了承下さい、これ以外にも知らない外国と日本の友情の話はたくさんあるのでしょうね。
しかし、アメリカに行ってトルコ人と仲良くなるなんて、旅は不思議なもので予期せぬ出会いにいつも感動させられます。
この逸話を知る機会を与えてくれたトルコの友人に感謝します。
Teşekkürler! Görüşmek üzere!
参考資料ウェキペディア:エルトュールル号遭難事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AB%E5%8F%B7%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
トルコ大使館
http://www.turkey.jp/2003/info03_5.html
串本町観光協会
http://www.kankou-kushimoto.jp/txt001.html
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